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私の船旅 そのG貨物船―カサブランカ・トリポリ―
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作成日時 : 2011/09/26 11:06
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1974年3月30日、スペイン領カナリア諸島のラスタヌラスを出航した「べるげん丸」は、進路を北東に変え、次の寄港地カサブランカへ向かいました。
4月1日、モロッコのカサブランカの港に着き、ここに5日間、停泊しました。
先のダーバンでもラスパスマスでも停泊は1泊2日と短いのは、直ぐに接岸でき、揚げ降ろしの荷物が少ないことによるためのようでした。単に水や食料の調達するためのこともあったかもしれませんがよくわかりません。何を降ろし、何を積んだかはあまり関心がなかったのです。ただし、後に寄るエジプトのアレキサンドリでは高級と言われるエジプト綿を大量に積んだのはよく覚えています。
さてカサブランカですが、街の名前はスペイン語で「白い家」を意味するcasa blancaからと思っていたのですが、モロッコは戦前はフランス領で、スペインに占領されたことはないようでした。調べてみると昔ポルトガル人がこの街に来てカサブランカ―ポルトガル語でもcasa blancaなのですが発音が少し違う―と名付けたそうです。それにしても私が見た範囲で「白い家」が街に多かったわけではありません。
カサブランカといえば、なんといってもアメリカ映画の「カサブランカ」でしょう。後に日本で観たのですが、1942年にハリウッドで制作された敵国ドイツとドイツ傀儡のヴィーシー政権を非難する戦争プロパガンダ映画とラブストーリ映画の合体した完成度の高い映画です。私にとって数少ない何度観ても観飽きない映画の一つです。完成度が高い映画の割にあまり知られてないこの映画監督のマイケル・カーティスは、ハンガリー生まれの職人的監督で多数のエンタメ映画を作ったのですが、この作品以外、後世に残るような映画はほとんどないのです。映画「カサブランカ」ではなんといってもイングリット・バーグマンの美しさでしょう。ほれぼれします。美人とはこういう人のことを言うのでしょう。そのバーグマンは数多くのアメリカ映画に出ましたが、最後はスウェーデンの世界的な映画監督イングマール・ベルイマンが1970年代に制作した映画「秋のソナタ」です。彼女が67歳で亡くなる3年前の作品です。娘と母との葛藤を描いたこの映画のなかで存在感のある俳優を演じています。
映画の話が長くなりましたが、カラブランカに5日間いたのですが、40年ほど前の記憶は断片的で、覚えていることは、それほど高くない時計台が目印の旧市街で初めて見るアラブの街並み、他方、特徴のない新市街のアイスクリーム屋で見たびっくりするほど綺麗な若い女性、それに妻と知り合う前、神戸女学院の学生のとき知り合ったが片思いで終わった吉野生まれの女性にモロッコ風の民族衣服を土産に買ったことです。ヨーロッパ化されていたとはいえカサブランカは私にとって初めてのアラブの印象的な街でした。
カサブランカを出たべるげん丸は、4月6日にジブラルタル海峡を通過しました。この海峡は一番狭いところで幅が14キロメートルで船からヨーロッパとアフリカの両方の大陸を同時に見ることができましたが、特にスペイン側では頂に雪をかぶったシェラネバダ山脈の姿がくっきりと見えました。あたりまえのことでしょうが、地中海に入っても海の色は同じだと改めて確認したものです。べるげん丸は、スペインの港にもアルジェリアの港にも寄らずに、一路リビアのトリポリに向かいました。ラスパルマスを出て3日目でトリポリ沖に着きましたが、港が小さく直ぐには着岸できないので錨を降ろして数日待ちました。当分着岸できないことがわかり、遠くはないギリシャのピレウス港に寄り、再びトリポリ沖まで戻りましたが、相変わらず着岸できません。そして2週間も沖待ちをすることになったのです。今では考えられないような貨物船ののんびりした船旅です。沖で待機中、アフリカ大陸からの砂嵐に何日も襲われ、締め切ったはずの窓の隙間から細かい砂が部屋に入ってくるのです。砂漠の世界の一端を思い知らされました。船員も時間をもてあました様子で、高い甲板の上から糸を垂れて魚釣りの日々です。色鮮やかな魚を何匹も釣っていました。また、日本人が考案したという「デッキゴルフ」も楽しみました。
やっとトリポリ港に接岸しましたが確かに小さな港でクレーンも少なかったのです。ここに3日間停泊し、街中を散策しました。他に寄ったアラブの港町とは違った印象でした。リビアの首都なのに静かな街で、人々の表情もあまり明るいものではありませんでした。当時、27歳のカダフィがクーデターで政権を掌握して5年目で、貧しくも厳しい管理社会だったのかもしれません。国民はクーデターを余り歓迎もせず、その後40年近い独裁体制を予想していたのかもしれません。しかし、当時、若きカダフィの「緑の書」は、貧しいアラブの国を豊かにしようとする曖昧なところも多い革命思想を表わしたもので、私も注目しました。「直接民主主義」「社会主義」「第三世界論」が基軸になったものです。こうした思想のためか、街を歩いてもアラビア文字ばかりで英語表示が全くないのです。にわか勉強のアラビア語は役立たず、日本に手紙を出すため郵便局を探すのが一苦労でした。しかし西洋化されて、あるいは従来の西欧化に逆行しようとするアラブ世界の一端を見た思いでした。
その街で数名の若い―商社マンには見えない―日本人男性に会ったのです。何故こんなところに居るのかと不思議に―彼らも私を不思議に思ったかもしれませんが―思いながら話しかけても返事が少ないのです。「日本赤軍」の関係者ではないかと勝手に推測しましたが、確認したわけではありません。日本赤軍というと岡山朝日高校の同級性で大学も同じだったあのおとなしい奥平剛士君がイスラエルのテルアビブ空港で無差別殺人を犯したのです。この事件を調べていると、死傷者の多くはアメリカ籍プエルトリコ人だと知りました。この事件は私がトリポリに居る2年前の1972年のことだったのです。
トリポリ停泊中も一番暇な船医の私は、西50キロ余りに在るローマ時代、さらにその前のフェニキア人時代の遺跡「サブラタ」に、一人でタクシーに乗って行きました。遺跡はとても広くて短時間で回れるものではなく、現在は世界遺産となっていますが、その時は整備状態も悪く、1時間ほどで港に帰ったのです。往復の道端にはカダフィの大きな看板が林立していました。
船旅と言いながら陸の話が多く失礼しました。
次はギリシャとエジプトの話ですが、これも陸の話になりそうです。
写真説明:旧市街の搭(その後建てられたハッサン2世モスクとは別)、ポスター、カーティス監督、「秋のソナタ」のバーグマン、地中海地図、カダフィ、奥平君、サブラタ。
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船旅
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