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zoom RSS 三つの温泉―榊原・昼神・南知多―の旅 B

<<   作成日時 : 2017/06/23 23:12   >>

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3日目

満蒙開拓団平和記念館
画像朝食バイキングをいただき、早めに宿を発ち、まずは佐久間へ向かいました。3日目もよく晴れていました。
昼神温泉からさほど離れてはない阿智村の村内を走っていると、「満蒙開拓団平和記念館」の案内看板を見付け、寄ってみました。満蒙開拓団についてはこのブログでも書きました。「記念館」が長野県に在ることは知っていましたが、阿智村に在るとは思ってはいませんでした。残念ながらその日「記念館」は休館日でした。
2013年にオープンした同記念館のサイトを観ると記念館の理念の一つとして以下のことが明記されています。

全国で最も多くの開拓団を送出した長野県南部に「満蒙開拓」に特化した記念館を設置し、歴史・資料の記録・保存・展示・研究を行い、後世に正しく歴史を伝えるための拠点とします。

画像ここにある「全国で最も多くの開拓団を送り出したのが長野県南部とあります。全国から約27万人が旧満州へ送り込まれましたが、そのうち長野県からは3万8000人だそうです。長野県しかも南部からの開拓団が多かった理由として全人口のうち農村人口が多く、農業の経験がある貧しい農民が多かったこととされています。国策に長野県が積極的に協力したのでしょう。そのなかで、当初、開拓団政策に賛同しなかった村長は農林省の懐柔策に負け村民を送り出したのです。敗戦後、帰国した唯一の村民から集団自決を知らされ、自殺したという悲劇を昨年NHKの放映で知りました。その村とは長野県河野村(現在は豊丘村)でした。豊丘村は天竜川の東側に位置し、西側にある阿智村から約20キロ離れています。
全国的に唯一とされる満蒙開拓団の資料館を持つ阿智村は、昼神温泉の開発にもみられるよに独自に政策を展開しているようです。

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山間部の町村
阿智村から浜松市天龍区佐久間地区まで意図的に長野県南部から愛知県東部にかけてのいくつかの町村役場を回りました。平谷村、売木(うるぎ)村、阿南町、豊根村、東栄町(前三つは長野県、後二つは愛知県)を通過し、佐久間ダムの川下に到着しました。ところにより標高1000メートルの峠を越えると、深い谷間に降りるなければならない町村もありました。もっとも山を貫通するトンネルや山を繋ぐ橋で車による交通の便は改善しているようでした。それにしても便利すぎる生活環境のなかにいる京都太秦在住の私からすると生活の不便さは想像できません。私が訪れたのは1年中の最も暮らしやすいだろう6月でしたが、寒く、道路は凍結し、雪で閉ざされるだろう1月や2月、この地方の人たちは不便な生活を送っていることでしょう。一体、どのような経緯でこの土地に入り、住み続けてきたのでしょう。

佐久間ダム
佐久間ダムは今回が2度目です。近くまで来たので再訪しました。印象の乏しいダムとダム湖でした。コンクリートのダムは黒く汚れ、苔で覆われていました。訪問者は私の他2人。戦後日本の再建を象徴した佐久間ダム建設は遠い過去の出来事になったようでした。

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秋葉ダム
JR飯田線佐久間駅前から国道473号線(蒲郡市・牧之原市間)、そして国道152号線(上田市・浜松市間)を天竜川に沿って南下しました。川は次第に流れが無くなり、緑の湖への変化しました。その先に秋葉ダムがあり、ダム湖は「秋葉湖」です。
画像このダムは、佐久間ダム完成後の1958年に完成しています。ネット情報によると、主な目的は佐久間ダムの放流水の調整とあります。よく理解できません。併せて水力発電―三つの発電所―を追加し、さらに浜松市など下流域の上水道、工業用水、灌漑用水の供給が加わり現在は多目的ダムとして機能しているそうです。
ダムの直下の右岸に在る小さな集落(浜松市天竜龍山町)はがダム湖に沈んだ集落の姿を残しているのではと想像させました。

これまでの私の旅はダム観察が目的ではありませんが、山間部を車で走った結果、全国各地で数多くのダムとダム湖を観ることになりました。それぞれのダム建設で集落が無くなるという計画を知って、長年集落に暮らしてきた人達はどのような思いでいたのでしょう。それぞれのダム建設の現場でそれぞれ悲壮なドラマがあったことでしょう。ダムの姿が見えない都会に住む私たちは、ダムの恩恵を受けながらその現実に関知しないようです。
秋葉ダムの直ぐ下流に吊り橋「竜山橋」(164メートル)があり、中途まで歩きました。ダムを下流の川の上から眺められる全国的にもユニークな橋でした。

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秋葉神社
秋葉ダムからさらに天竜川に沿って走っていると大きく立派な石の一対の常夜灯が在り、「秋葉神社」と刻まれていました。
画像先の諏訪湖の旅で知ったこの地方の「秋葉信仰」あるいは「秋葉講」の総本宮らしく、本殿まで片道5キロとわかり、見学に行きました。蛇行を繰り返す坂道を少しスピードを上げて登りました。整備不十分の林道は神社の私道らしい。やっと大きな鳥居の前の広い駐車場に着きました。既に高い所に居ましたが、さらに標高866メートルに在る本殿まで長い石段を登りました。ちょっとキツイ道のりでしたが、心房細動が誘発されることはありませんでした。秋葉神社本宮は全体に新しい建物です。1943年に山火事でほとんど消失したそうです。
現在、もっぱら防火の神を祀る神社の総本宮として認知されているようですが、神社の歴史は複雑上で、土着信仰、山岳信仰、仏教、さらに権現や天狗などがからむ複雑多彩な神仏習合の歴史があるようです。
私なりの理解では、この地に秋葉山(あきはさん)を神体とする土着信仰があり、これに外から仏教が加わり、さらに神仏癒合的な修験道が普及し、これを補強する形で天狗の姿をした「三尺坊」という伝説化神格化さらた人物が絡み、いつの頃からか祭神に火の神―火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)―が加わり、江戸時代には防火の神を祀る神社として秋葉信仰が流行し各地に秋葉講が作られ秋葉参りが拡がったそうです。こうして全国に400カ所ほどの秋葉神社が設けられ、その総本宮的な役割を担っているので秋葉山本宮秋葉(あきは)神社のようです。これに匹敵するのは関西の愛宕神社信仰でしょう。
火事を経験してもまた木造の家を建てる日本人にとって火を守る、火を支配する神は無くてはなりません。こうした実利的背景から秋葉信仰が拡がったのでしょう。関西の愛宕神社の信仰もこれに匹敵するかもしれません。火の神を祀る秋葉神社を揶揄して「秋葉山から火事」とのことわざがあるそうです。
この神社も明治政府の神仏分離・廃仏毀釈の政策によって秋葉寺は分離され別の場所に置かれ、ここに神社が残されたというのです。実際に見学してみると、火は人に営みになんでも関係し、なんでもご利益の、なんでもありの神社―「多目的神社」―と判断しました。「幸福の金の鳥居」がその象徴でしょう。記念に天狗付きの絵馬(一枚500円)を買いました。

船明ダム
画像さらに天竜川を下ると再び流れは無くなり川は湖となりました。「船明(「ふなぎら)ダム」とダム湖です。1977年に完成したダムも多目的ダムで天竜川の最下流の在ります。1925年、福沢桃介によって始められた水力発電を主な目的とした天竜川の開発はこれで終了したされています。
ダム湖の沿岸を走っていると湖にかかるアーチ状の橋を見かけました。通過料金なしの「夢のかけ橋」(473メートル)も途中まで歩いてみました。歩行・自転車専用の橋にしては立派な作りなので、気になり調べてみると、戦前から計画された二俣駅(現在の天竜浜名湖線の天竜二俣駅)と飯田線の中部天竜駅とを結ぶ計画路線「佐久間線」は1967年に工事が始まるが、国鉄再建の影響で工事は中止されました。建設途中の橋を整備したのがこの橋だそうです。なぜ「夢のかけ橋」なのかその理由は分かりません。

天竜二俣駅
画像国道152号線を下って浜松市天龍区二俣の地区に入り、国道から商店街に入ると新旧様々な時代の民家が並んでいました。あまり活気は感じられませんでした。少し走ると天竜浜名湖線の天龍二俣駅の前に着きました。駅舎には鉄道マニアと思われる若い男性数人をみかけました。何か特別な催しものでもあるのかと、古い昔ながらのプラットホームに立ちましたが、よくわかりません。ネットで調べるとこの駅には昔の列車基地を活かした「鉄道歴史館」があり、かつて走った電車などが動態保存されています。

飛龍大橋
国道152号線の天龍大橋(1100メートル)(橋の表記は「飛竜」ではなく「飛龍」が正しい)を渡り、左に折れて天竜川の右岸の堤防の上を走りました。空はよく晴れ、川幅はとても広い川に沿って気持ちよく走りました。新東名高速の下を抜け、東名高速の手前で右に折れて浜松インターに向かいました。元の計画では大井川の河口まで走ることにしていましたが、先の旅で河口付近は既に観察し終えており、浜松から蒲郡までは東名高速で移動しました。
先日、観光バスに対向車線から車が飛んでくる事故が話題になりましたが、その現場(愛知県新城市内の東名高速)も通り過ぎました。音羽蒲郡インターで一般道に降り、湾岸に向かって走って着いた所は、先に旅で訪ねたことがある「蒲郡クラシックホテル」の前の駐車場でした。

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西浦温泉と吉良温泉
伊勢湾の一部をなす渥美半島と知多半島に囲まれた海域は「渥美湾」と「三河湾」と「知多湾」からなるのですが、その境界がはっきりしません。その海域の海岸線を国道23号線そして国道247(名古屋市・豊橋市間)と西に走りました。
その間に通過した「西浦温泉」は初めて知りましたが、開湯が1953年と新しいく規模の大きなホテルや旅館が立ち並んでしました。さらに西には「吉良温泉」があり、これは戦前からの温泉地だそうですが、元気が感じられません。その温泉地に異質な巨大な会員制リゾートホテル「三河湾リゾートリンクス」が立っていました。
江戸時代、現在の西尾市に吉良家が在り、赤穂事件で悪役にされた吉良上野介について西尾市観光協会の公式サイトには以下の弁明が載っています。

『忠臣蔵』では赤穂浪士に討たれる悪役として描かれる吉良上野介義央(よしひさ)公ですが、実際に悪人ぶりを示す資料はほとんど残っていません。地元吉良町には、義央公が築いた黄金堤(こがねづつみ)を始め、義央公が寄進した文化財等も多数残り、今でも名君として慕われています。

名鉄蒲郡線
画像湾岸を走っていると地元の人には失礼なことですが、こんなところ電車が走っているのが意外でした。名古屋鉄道の蒲郡線です。JR蒲郡駅に隣接する名鉄蒲郡駅と名鉄吉良吉田駅の間の路線です(吉良吉田駅から名鉄本線新安城駅までは西尾線)。その駅の一つ「西幡豆(はず)駅」(開業1935年)の木造の駅舎は開業当時の姿とままと思われるほど時代から取り残され親しみを覚えるました。ちょうど、ひとまわり小さくみえる赤い電車が入って来ました。高齢のご婦人が一人下車しました。

南知多道路
画像国道247号線を走り、碧南市の衣浦(きぬうら)港の有料(250円)の海底トンネル「衣浦トンネル」を抜けて半田市に入りました。その後カーナビに従って、どの道を通ったかほとんど不確かなまま半田中央インターから「南知多道路」に上がりました。知多半島の縦断する高速道路を南下し、名前が気に入った「美浜インター」で一般道に降りました。この美浜町を南東に走り、知多半島の西海岸に出て国道247号線を南下して南知多町に入りました。
画像その最南端の「師崎(もろざき)港」の界隈は活気が感じられました。港には数多くの船が繋がれ、フェリーターミナル周辺にも人が多く、勤め帰りの人や自転車で通学する高校生の姿を多く見かけました。
この港の沖には「三河湾三島」と呼ばれる「日間賀島」「佐久島」「篠島」があり、漁業や釣りやいくつかの旅館やホテルが在りリピーターが多いと聞きます。

知多半島の道路と鉄道
先の旅で走った渥美半島は豊橋鉄道渥美線の一本しかありません。高速道路もありません。半島の長さにしてこれと同程度の知多半島は名鉄の3路線、JRの1路線、さらに高速道路として知多半島道路が南知多道路と知多横断道路に分かれます。そして中部国際空港があります。大都会の名古屋、そして工業地帯に近いためか知多半島は交通のアクセスははるかに良く、「地域開発」が進んでいるようです。

菓子工房「吉川屋」
画像師崎港の傍を通過して知多半島の西海岸、すなわち伊勢湾岸を北に走りました。コンビニの前に車を停めて、その夜、宿で飲む缶ビールを買いました。コンビニの向い並ぶ街並みが漁村の集落に似ており、狭い路地を歩いてみました。先の瀬戸内の旅で訪れた本島の集落に似ていました。その一角に「菓子工房吉川屋」を見つけました。半島の先端あたりに和菓子を製造販売する店があることを不思議に思い、狭い店内に入りました。
「大島だんご」「若あゆ」「桜もち」「串だんご」など10種類ほどの和菓子がケースにならんでいました。奥の方に声をかけると、少し疲れた様子の小柄なご婦人が出てきました。5個買って「昔からやっておられるのですか」と聞くと、「伊勢湾台風の後から」との返事でした。
そういえば1959年に伊勢湾を中心に甚大な災害をもたらした「伊勢湾台風」があったことを思い出しました。台風の被害者ではない私の記憶からほとんど消えていますが、被害を受けた当時の湾岸の人々にとって生活と人生を変えてしまった台風の記憶は消え去ることはないのでしょう。
今回の旅で知多半島の前に通過した一色町は、ブランド化した質の高い鰻の養殖で知られています。この一色町は伊勢湾台風で農地が海水が被りしばらくは農業ができなくなったそうです。その農地をまったく畑違いの鰻の養殖に使うことで成功したそうです。

伊勢湾台風
画像改めて調べると、1959年9月26日、紀伊半島の潮岬に上陸した台風15号は、紀伊半島や東海地方からみて西を通過し、この一帯が強風と洪水と高潮(津波ではない)の甚大な災害に合ったのです。死者 4697人、行方不明者 401人、負傷者 3万8921人と公表されています。伊勢湾台風の時代は、気象観測、台風の進路予測、被害の想定、ラジオやテレビによる適宜な情報提供が不十分で被害を拡がったとされています。この伊勢湾台風が契機となり、その後の台風防災が改善されたたと言われています。



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南知多温泉
南知多町の海岸線を走ると、多種多様なホテルを見かけました。まとまってではなく、距離をおいて立っていました。「南知多温泉」(または「南知多温泉郷」)の開湯が1988年と新しく、温泉ホテルや温泉旅館が散在して温泉郷を形成していました。これらのホテルや旅館が、源泉の他に海岸と海と山、そして夕陽を共有しているのです。さらに伊勢湾内を行き来するさまざまな貨物船、そして沖待ちで停泊している船を観ることができるのです。

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THE BEACH KUROTAKE
画像この南知多の温泉宿のなかで一人旅プランがあり、料理もよさそうだと予約したのがローマ字表記の「THE BEACH KUROTAKE」でした。宿の人に聞きましたが、「クロタケ」は経営者の名前で、「ビーチ」は、この旅館の前がプライベートビーチのためと理解しました。ローマ字表記から夕食をとるまでイタリアンかフレンチの料理だろうと思っていました。和食でした。しかも創作料理的ではなく標準的で質の高い和食でした。料理旅館か割烹旅館と呼んだ方がよいと思うほどの料理でした。
画像いつも料理が美味いと総料理人に話をしたくなるのですが、今回も若い総料理人と話すことができました。渡谷眞弘氏は、有馬温泉で料理を学び、料理長の経験も積んだ人です。「クロタケ」の名称は新しく、現在は旧称「魚友」を列記しています。もともと和食旅館でしたが評判がよくなかったらしく、彼が料理長として入ってから料理部門を改革し、客の前で料理を見せるスタイルに変えるなどして高い評価を受けていることがネット情報から知ることができます。優れた和食を泊り客だけに限定するのは惜しいと話すと、日帰り温泉と昼食をセットにしたサービスが好評と聞きました。
「クロタケ」の宿泊部門は普通ですが、温泉、ビーチに立つというロケーション、湾内の貨物船、夕陽、そして優れた料理と総合的に質の高いサービスを提供している「THE BEACH KUROTAKE」はお薦めです。
(Cへつづく)


画像説明:地図(@昼神温泉A売木村B阿南町C東栄町D佐久間ダムE秋葉ダムF秋葉神社G船明ダムH天竜二俣駅I西浦温泉J吉良温泉K衣浦トンネルL師崎港MTHE BEACH KUROTAKE)、満蒙開拓団平和記念館、満蒙開拓青少年義勇軍募集ポスター(阿智村所蔵)、平屋峠(標高1160メートル)から売木村を望む(この峠を訪れてはいないが私の売木村の印象をよく伝える画像として使う)、秋葉ダムと竜山橋、秋葉ダム直下の集落(浜松市天竜区竜山町、中央は白倉川、手前で天竜川に合流)、秋葉神社(神門と本殿前の金の鳥居、遠景は遠州灘)、秋葉神社の絵馬、船明ダム湖に架かる「夢のかけ橋」、天竜二俣駅、西浦温泉(左)と吉良温泉(左が三河湾リゾートリンクス)、西幡豆駅、衣浦トンネルの料金所、師崎港、吉川屋、伊勢湾台風で堤防が決壊(一色町)、南知多温泉郷の一部、ロビーフロント(クロタケ)、露天風呂(同)、渡谷眞弘氏。

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