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zoom RSS 琴平・小藪・湯布院・岩国・皆生の温泉の旅(上)

<<   作成日時 : 2017/07/07 21:20   >>

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5泊6日
6月は欲張って3回目の「温泉とグルメの旅」を楽しみました。しかもロシアの旅の以降、最長の5泊6日の旅でした。
当初は、愛媛県に在る気になる温泉「小藪(おやぶ)温泉」だけを訪ねることにしました。小藪温泉に行って帰えるだけでは「もったいない」と、近辺の温泉を探しました。四国には訪ねてない目ぼしい温泉が見つかりません。それならと近くの佐田(さだ)岬半島から九州に渡ると、別府や由布院があり、別府は別の旅で泊まる宿を決めており、由布院は訪れたことはあるが泊まったことはないと宿を予約し2泊3日の計画に変更しました。
さらに欲が出て、小藪温泉の手前に泊まっておきたかった「こんぴら温泉郷」の「琴平花壇」も泊まることにし、さらに帰路にまだ観ていない「錦帯橋」を訪ね、傍の「錦帯橋温泉」の宿に泊まることとして4泊5日に拡大しました。
さらに旅の直前になり、気になっていた松江の老舗旅館「皆美館」の名物「鯛めし」と食べて山陰でよく知られながら未だ訪問したことのない皆生温泉に一泊することにして、最終的に5泊6日の長期の旅となりました。
認知症の妻を介護していた頃は、月1回の1泊2日の旅だけでした。猫が居た頃は2泊3日が限度でした。妻もいない、猫も居ないこの時、私の旅を規制するのは体力と資金力だけです。
今回の旅も私の旅のテーマ―温泉、グルメ、宗教施設および海岸線の走破―に沿ったものとなり、日本再発見にもなったと思います。
曇りか雨のなかを運転した6日間はさすが疲れ、高い山の頂や遠くの島影は楽しめませんでしたが、初夏の雨に濡れた樹々や森林は美しく映えていました。

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1日目
ルート
最初の日の宿は、「琴平花壇」でした。自宅から、京都縦貫、名神、阪神、神戸淡路鳴門の各自動車道を走り継ぎ、鳴門インターで一般道に降りました。鳴門市から徳島市に移り、吉野川の河口に架かる長い橋を渡り、吉野川の右岸(南岸)に沿って国道192号線(徳島市・西条市間)を西に走りました。この道にはJR徳島線が平行して走っています。

吉野川
琴平には自宅から直接に行くと4時間半ほどで着きます。宿に着くまでは特にルートを決めないで、吉野川のいくつかの橋を渡って南岸だけでなく北岸も走りました。吉野川には30以上の橋があるそうです。
それにしてもこの界隈で病院がよく目につきました。人口あたり病院数が多いのは高知県、鹿児島県について徳島県は第3位です(2011年統計)。徳山市内には「東洋病院」と誇大名称と思われる病院もありました。1977年開設でベッド数50のこの病院は「東洋医学と西洋医学との統合医療により、広く地域医療に貢献し、信頼される病院を目指します」と理念を謳っています。

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川島城
徳島市から西隣の石井町を抜けて吉野川市に入りました。吉野川に近い小高いに丘に城を見かけたので行ってみました。コンクリート製の観光用城でしたが、天守閣から吉野川の眺望はよかった。この城は、明治政府の「廃城令」ではなく、徳川幕府の「一国一城令」によって廃城とされ跡地に奉行所が置かれたそうです。奉行所跡では観光メリットが少ないだろうと1981年に天守閣を再建したと勝手に推測します。

うどん一休
画像堤の上の国道を西に走ると「うどん一休」がありました。昼食時とはいえ、駐車場に車が多いので味は間違いないだろうと入りました。「讃岐うどん」ではなく「徳島うどん」と自称する店で「ざるうどん」を注文しました。久しぶりにうまいうどんを食べました。
テーブルのある写真入りうどんの造り方の説明書によると、足で3度踏み、延ばして包丁で切るというスタンダードな方法で造っているようですが、噛みごたえのよい弾力感がよろしい。店は家族経営らしく男性2人と女性4人が黙々と仕事をこなしている様子でした。「大将、うまかった」と声を掛けても反応はありませんでした。自宅用にこの店の土産用うどんも買いました。
ネット情報によると、「うどん一休」という名前のうどん専門店は関西や九州にいくつかありますが、これらと吉野川市のこの店とは関係ないようです。

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うだつ町並み
いつとはなしに隣の美馬(みま)市に入り、対岸に渡ると、全国各地でみかける同じようなありふれた幹線路沿いの郊外型店舗群―マクドナルド、コンビニ、エディオン、イオンなどの―の綺麗ではない光景に落胆しながら走りました。しかし、その先で突然道路沿いの光景が一変しました。初めて聞く「うだつの町並み」の看板が立っていました。古い町並みらしく、駐車場に車を停めて見学しました。驚きました。
第一印象は時代劇映画のセットのようで、人影はほとんどなく無く、白壁と黒い瓦の大きくはないが重厚な民家が数多く並んでいました。倉敷の姿とも異なり、これまで全国各地で観てきた町並みとも異なる独特の光景でした。美馬市の公式サイトに以下の解説があります。

吉野川北岸の主要街道の撫養街道と讃岐への街道が交差する交通の要衝であり、さらに吉野川に面するため舟運の利用にも適した位置にあります。
この町並みは、脇城の城下町として成立し、藍の集散地として発展したものです。現在は明治時代頃のものを中心として江戸中期〜昭和初期の85棟の伝統的建造物が建ち並んでおり、近世・近代の景観がそのまま残されています。
この町並みの大きな特徴は、町家の両端に本瓦葺きで漆喰塗りの「うだつ」が多くみられることであり、このことから「うだつの町並み」の通称で親しまれています。
毎年10月には「うだつまつり」が開催されます。

「うだつが上がらない」の語源する説の「うだつ」は吉野川のこの一角だけでなく、美濃や飛騨でも見かける民家の造りです。

脇町劇場
画像この町並みの東のはずれで吉野川の支流を渡ったところに在る「脇町劇場」(愛称:オデオン座)も観ておこうと向かいました。館内で映画が上映されているようなので、どのような映画であろうが劇場内部を観たいと入ろうとしました。すると一人の青年が「今日は貸し切りで途中から入場できません」と言うのです。その意味がよく理解できないまま外に出て、広告の旗を観るとタイトルが「君のまなざし」という映画でした。旗をよく見ると、「大川隆法製作総指揮」と書かれていました。「幸福の科学」のプロパガンダ映画または教育映画なのだろうと思いました。これで彼の行動が理解できました。私の勧誘は試みなかったようです。
「幸福の科学」の教義はよく知りませんが、系列の「幸福実現党」の政治活動を行っている点は創価学会と似た宗教組織と考えます。不確かなあの世での幸福ではなく、この現世に幸せを求めるなら政治を通して獲得するのが確かに筋でしょう。

言うまでもなく、キリスト教もイスラム教も、当初は新興宗教で「邪教」と忌み嫌われ、時の権力者や既成宗教組織からの弾圧を受けながら生き延びました。そして、社会的、政治的に容認されると巨大組織となり、新たに権力を持ち、巨大で荘厳な宗教施設を造って今日に至っています。このことを考えると「幸福の科学」を攻める理由は無いでしょう。
無神論者の私の関心事は、「何故、彼らはそうした宗教に惹かれるのだろうか」ということです。
なお、「幸福の科学」の創設者で総裁の大川隆法は吉野川市の出身です。

劇場から駐車場まで歩いていると、「うだつ町並み」の民家の軒下に男女3,4人が立っていました。かれらの劇場にことを伝えようとしました。よく見ると彼らの前に置かれた小さな台に「エホバの証人」の字が読めました。こんな近くに二つの新しい宗教団体―日本発とアメリカ発―が宣教活動をしているとことが不思議に思えました。

阿波晩茶
画像駐車場の近くにオーガニック野菜のカフェ「くるわっか」で少し休みたいと入りました。メニューにある初めて聞く「阿波晩茶」(「番茶」とは製法が異なるので「晩茶」と書くことが多い)が気になり、注文しました。注文した冷茶はあまり美味しくはなかった。その後、寄った道に駅で新茶の「阿波晩茶」を購入しました。
通常の「番茶」と比べ値段がやや高めでした。徳島県の山間部の山茶から造った発酵茶の一種です。沸騰した湯に入れて2分ほどで火を消し、しばらく蒸してから飲みます。まろやかな風味のお茶でしたが、私には毎日飲むお茶ではありません。
ネットで調べてみると、この晩茶の他に、四国では高知県の「碁石茶」、愛媛県の「石鎚黒茶」(商品名:天狗黒茶)の計3種類の発酵茶が生産されています。わが国では発酵させない緑茶が一般的で、中国の烏龍茶のように茶発酵茶の生産者が少なく生産量も少なくようで、四国限定のお茶のようです。もっとも「碁石茶」はネットで注文できましたが(まだのんでない)、黒茶は地元の店でしか入手できないようです。

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金刀比羅宮
石段を上る
吉野川を上流に向かい、つるぎ町、東三好町を通り、三好市に入りました。ここから国道32号線(高松市・高知市間)に移り、山間部の蛇行する坂道を上り、猪ノ鼻峠のトンネルを抜ける香川県に入り、その先が琴平町でした。
3年前、琴平を訪れた時、大規模温泉ホテル「琴参閣」に泊まりましたが、台風の接近で深夜にタクシーで瀬戸大橋を渡って児島まで避難しました。当時は計画どおり帰宅しなければならなかったのです。現在なら、ホテルで台風が去るのを待つでしょう。

宿「琴平花壇」にチェックインするにはまだ時間があり、金刀比羅宮の石段を上ることにしました。象頭山に在る神社は想定外に規模が大きかった。
階段の数は当初300段ほどと思い込んでいましたが、途中から本宮まで合計700段以上あることが分かりました。途中で下がるわけにもいかず、心房細動の発作が起きないように休み休み上りました。石段を登る人たちを散見しましたが、途中で引き返す人は見かけませんでした。若い二人連れ、子連れの若い夫婦も上っていました。

それにしても参拝者または見学者にこの「苦行」を強要する神社の意図はどこにあるのでしょう。ロープウエイ、ケーブルあるいは車道を用意することが「信仰心」の妨げになると宗教法人の方々は考えているのでしょうか。あるいは、「苦行」を成し遂げたことで得られるだろう達成感を与えようとしているのでしょうか。その日の宿で聞いた話では、参道で倒れて亡くなった人は知らないとのことです。

変えられた宗教
神体とする象頭山(ぞうずさん)には現在金刀比羅宮の神社だけですが、江戸時代までは神仏習合の宗教施設として「琴平神社」と「松尾寺」が併設されていました。神社の祭神は水の神とされる伝説上の人物、大物主(おおものぬし)または大物主大神で、寺院は本地垂迹説に準じてインドの水神「カンビーラ」に由来する金毘羅権現を守護神として祀っていました。水神信仰が広がり、江戸時代には「こんぴら参り」が流行しました。

明治時代に入り政府の神仏分離令により神社が優先され「金刀比羅宮」と改称させられ祭神は大物主に、松尾寺を参拝したとされる奈良時代の「崇徳天皇」が祭神に加えられ、天皇を中心として国家神道の流れに迎合させたのです。廃止された松尾寺はなんとか生き延び、形を変えて象頭山の山麓に在るそうです。

江戸時代までの神仏習合のなかで神社より寺院の方が優勢だった「こんぴら信仰」は、明治政府の神仏分離令もしくは神道保護政策で強制的に宗教の形を変えさせられたのです。さほど古くはない時期のこうした歴史がなかったかのごとく、あたかも古の昔から今の姿であったかのように振る舞う金刀比羅宮が受け取られているようです。民間信仰に政府が介入した歴史が抹消されたような金刀比羅宮なのです。

水神を祀る神社としては全国最強を謳歌するかのように金刀比羅宮は、戦前、帝国海軍の指定神社とされ、戦後は海上保安庁の職員が参拝すると聞きます。境内、とりわけ本宮横の絵馬殿には国内の海運や造船関係の大小の企業が競うかのごとく大きな絵馬が奉納されています。
また参道両脇には夥しい数の大小の石柱が並び、寄付金の競うかのごとく寄付石が立ち、「金壱百萬円」などと刻まれていました。一体、このお金何に使われているのだろうとちょっと疑ってみたくなりました。

幸い発作を起こすことなく本宮まで石段上り、比較的楽な石段下りを終えることができました。参道下部の周辺には数多くの土産物屋が並び、周辺には旅館やホテルが立ち、門前町を形成していました。金刀比羅宮の神道に依存した産業―宗教ビジネス―はこの琴平町では重要なのでしょう。こうした宗教ビジネスで生活する人たちを無神論者はどうとらえたらよいのか迷います。

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琴平花壇
前回の半分泊まってよい印象が残らなかった大規模温泉ホテルを避けて、今回は質の高いサービスを期待できそうな小規模で一人旅プランのある老舗「琴平花壇」を予約しました。ほぼ想定どおりの質の高い温泉旅館でした。
淡路島を拠点とする「ホテルニューアワジグループ」が経営する兵庫県外唯一の旅館の「琴平花壇」は参道から少し離れ象頭山の麓に在りました。

創業は江戸時代で参道近くに在った旅館「備前屋」が、現在の地に別邸「琴平花壇」を開業しました。戦後「ホテルニューアワジグループ」が経営に加わり、改築した鉄筋コンクリートの棟と従来の庭園内の離れとを併存した旅館です。もっとも温泉旅館となったのは新しく、1997年に琴平で温泉源が見つかってからのことです。
私は新しい宿泊棟に泊まりました。大浴場は申し分なく、食事処での夕食と朝食もよろしい。当日、若い男女の宿泊者が多く、中高年は少ないようでした。フロントで聞くと、たまたまだそうで、中高年にも人気がある宿だそうです。
なお、箱根の「高級旅館」として知られる「強羅花壇」はこの宿とは関係ないこともフロントで確かめました。


2日目

ルート
旅のテーマの一つである「海岸線を走破する」にそってまだ走ってはいない宇和島から松山までの沿岸を走ることにしました。既に先の旅で、徳島から宇和島までの四国の東海岸から南海岸そして西海岸の一部は走りました。松山から徳島までの四国の北海岸も走りました。残るは宇和島から松山の間の海岸―宇和海と伊予灘の海岸―で、佐田岬半島もまだ走ってはいません。
とうことで旅の2日目は、琴平から高速道路で四国中央部に向かい、四国の西部を斜めに走り、宇和島から八幡浜までは海岸線を走り、大洲(おおず)市の「小藪温泉」に泊まりました。

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金丸座
前日、見落とした現存する日本最古の芝居小屋とされる「旧金毘羅大芝居」(通称:「金丸座」)を訪ねました。門前町から少し離れ、琴平花壇から遠くはない斜面にその建物がありました。年1回、歌舞伎が上演されているそうです。

四国西部を斜めに走る
琴平から通勤の車で混む市街地を走り、善通寺インターで高松自動車道に上がり、川之江ジャンクションと川之江東ジャンクションを経由して高知自動車道に移り、大豊インターで国道439号線(徳島市・四万十市間)に降り、宇和島を目指しました。四国の中央部から四国西部を斜めに走るルートを選びました。インターから吉野川の南岸に沿って西に走り、本山町(もとやまちょう)を抜け、土佐町に入りました。土佐町は「議会を無くす」として一躍有名になった人口300人余の大川村の南隣り在ります。

早明浦ダム
画像土佐町の街中から見える大きなダムは「早明浦(さめうら)ダム」で1975年に完成した発電も兼ねた多目的ダムです。吉野川本流の設けられたダムのダム湖「早明浦湖」は何度か渇水に直面し、湖底に沈んだ大川村の役場の建物が出現したことで知られています。
ダムもダム湖にもすっかり関心が薄らいだ私はダム本体まで訪ねる意欲もなく、遠くから見ただけでした。




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梼原町
画像さらに南西に走り「いの町」「仁淀川(によどがわ)町」を通過して、村名が読めない初めて知る「梼原(ゆすはら)町」に入りました。「雲の上の町」と自称するこの町は四国西部の山間部に在って少し特異な自治体のようでした。
第一印象として、メインストリートに意図的に作られたいかにも人口的な町並みに違和感を覚えました。木造を主体とし壁面に萱をふんだんに使った「道の駅」と壁面のほとんどが木造の「町総合庁舎」は革新的、独創的というより異様で私にはなじめない外観でした。ネットで調べると、木材を主体とする建築家建築家の隈研吾(くまけんご)氏の作品です。全国的に有名な建築家ではなく四国に依頼できる設計家が居なかったのかと思いました。

画像二つ目は坂本竜馬の「脱藩の道」を観光資源として活かしていることです。NHKの大河ドラマが嫌いな私ですが、例外的に2010年、福山雅治主演の「竜馬伝」は欠かさず観ました。このドラマでも竜馬が土佐藩から脱藩する姿が描かれていました。もともと脱藩は、藩に背き幕府体制の揺るがす違法な行動で死刑に処せられることもあったそうですが、体制が揺るぎ始めた幕末に脱藩する者が増えたとはいえ危険を伴う行為には違いはありませんでした。そうしたなかで脱藩を決意した竜馬は下関商人の援助を期待し道筋の支援者の助けを得て、裏街道を選んだのです。そのルートとは、陸路、高知から梼原へ、峠を越えて伊予に入り川を下って大洲に出て伊予長浜に下り、さらに船で伊予灘を渡って上関に着き、下関へ至るものです。
この梼原町のメインストリートの西の端に在る三嶋神社の境内のはずれの森のなかに「脱藩の道」の案内板があり、いかにも竜馬がこの道を歩いたと想像できるように作られていました。町では「脱藩の道」をたどる「竜馬脱藩ウオーク」を催しています。

梼原町は「雲の上の町」と自称していますが、町の公式サイトには以下のキャッチフレーズが掲げられています。

梼原町は町面積の91%を森林が占め、
標高1455mにもなる雄大な四国カルストに抱かれた
自然豊かな山間の小さな町です。
四国カルスト高原は、全国的にも珍しい高位高原カルスト地形になっており、
至る所に手付かずの自然が残り、
晴れた日などには太平洋から瀬戸内海まで一望できます。
理由の一つが四国で珍しいカルスト高原が


限られた資源を有効に観光にも活かす努力をしている自治体と思いました。

木造公営住宅
この町役場が庁舎に木材をふんだんに使っているのと同じ流れなのか、高知の山間部を走っていると、公営と思われる新しい木造の集合住宅あるいは同じ外界の木造一戸建てが並んでいる光景は各地で観ました。丈夫な鉄筋コンクリートの公営住宅が主流だったと思いますが、木造一戸建ては、豊富な地元の木材を活用しながら、木造一戸建て志向の住民に沿った建物なのかもしれません。

山腹の集落
この高知の山間部でも高い山の中腹に少なからず民家があり集落を見かけました。徳島県や長野県を旅した時にも見かけました。どうしてこんな高い所に暮らしているのだろうと住人に聞きたい衝動に駆られましたが、そのチャンスは未だありません。しかし、高知の山間部を車で走っているとその道が、こうした山の集落に近くか、場所によっては高い所に在るのです。こうしたそこに住む人たちの生活の様子で見る機会となりました。
そこから私が次ぎのように想像しました。山間部で生活や農業に利用できる限られた平地は河川の近くにしかなく、こうした場所はその地の有力者か富裕層が所有するでしょう。もっともこれらの平地は河川の洪水の被害を受けやすいという欠点があったでしょう。金銭的に恵まれない人たちは、山林所有者から分与された麓を自ら開墾して生活と農業の土地を造成したのでしょう。その後から入ってきた人たちは、山のより高い場所を開墾することになり、これが繰り返されて結果的にかなり高い山の上まで山腹に民家が並び、人が住み農業を営むという形になったでしょう。また先の十津川の旅で知ったように、昔の人が通う路は川沿いではなく、山の峰を通ることも少なくなかったのです。このした道が確保されておれば高い所で生活することは必ずしも不都合なことばかりではなかったと思われます。今回の旅で実際に身近で観ると、高い所に在る集落でも軽トラが重要な交通、運送手段になっていることを知りました。

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みかん畑
梼原町から県境を越え愛媛県鬼北町、そして宇和島市に入りました。先の旅で列車に乗った「JR宇和島駅」の前に車を停め、宿までルートをカーナビに再設定しました。その道は国道378号線(伊予市・宇和島市間)で、宇和海に面したミカン畑に中の整備不揃いな道でした。
画像最近のデータのよるとみかん収穫量で愛媛県は和歌山県に次いで2位を維持しています。宇和海を望む南向きの丘陵のほとんどミカン畑でした。私が走った時期は収穫期ではなく農家の人の姿はほとんどみかけませんでした。道のいたるところに農作業用のモノレールを見かけました。レールをどのようにして設置するのかその工法はわかりません。このみかん農家用のモノレールを発明した愛媛県人―米山徹朗氏―がいることを知りました。
平地の稲作より段々畑でのミカン栽培はかなりの重労働だったそうです。人の手で肥料を担ぎ上げ、ミカンの担ぎ降ろしていたのです。この重労働を解決するためにディーゼルエンジン搭載の自走機をパイプで架設したモノレールに走らせ、負担を軽減しようとしたのです。レールの下側に刻みを入れて移動する方式で、レールの支柱も簡単に設置できるようにしました。この種のモノレールは、みかん畑に限らず、梅、タケノコ、緑茶の農園でも利用され、さらに森林での工事など規模の大きなモノレールも開発されてきました。
その米山徹郎氏は現在82才で松山市に本社を置く米山工業の代表取締役で現役の企業家です。

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真網代くじらリハビリテーション病院
宇和海の海岸道路を西予市から八幡浜市に入ると、病院らしき建物―「真網代(まあじろ)くじらリハビリテーション病院」―が在り、その前の芝生のいくつかの変わった形の石像が立っていました。そのような意図で石像群が在るのかわからないというより、多くの石像を建てるほど経営的に余裕のある病院なのだろうと連想しました。どのような病院なのかネットで調べました。
「リハビリ」、「認知症治療」、「医療療養」を提供するという1994年開設のこの病院は、「くじらグループ」の病院の一つで、同グループは、精神科で同じく八幡浜市内に在る「くじら病院」、チヨダクリニック、高齢者ケアセンター、特別養護老人ホームなどを運営する社会福祉法人「弘正会」、さらに東京都江東区に精神科の「くじらホスピタル」から成ることがわかりました。病院はサイトで石像群を設置した意図を以下のように説明しています。よくは理解できません。

彫刻家・門脇おさむ氏の作品です。通常、風車の羽は4枚で造られる事が多いのですが、ここにある一番大きな風車は六枚羽です。羽の中心には俵があり、六枚の羽と合わせて「六俵(むひょう)」と読み、無病息災と結び付けています。六枚羽の風車は重さが2.5トンもあります。海からの風を受けてゆっくりと回る姿は、普通の風車にはない力強さがあり、真網代くじらリハビリテーション病院のシンボルとして回り続けています。


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小藪温泉
八幡浜市から東に走り大洲(おおず)市に入りました。大洲は、肱川(ひじかわ)の中流に栄えた城下町で、川に大きな洲が在ることから地名が生まれたのかもしれません。この肱川は、脱藩した竜馬が船で下った川で、さらに下って伊予灘の長浜の港まで行ったそうです。肱川の左岸を北上して大きな赤い鳥居を右にくぐり、坂道を上ったところに小藪温泉がありました。大洲市の公式サイトに以下の温泉の解説が載っています。

小藪温泉は、一級河川「肱川」の支流である小藪川の渓谷沿いに所在する湯治場(とうじば)温泉です。明治年間には、すでに源泉のそばに入浴場が設けられ、多くの入浴客で賑わったと伝えられています。また、大正3年刊行の『喜多郡の華』という冊子の中では、「喜多郡十二自慢」として名所部門の一つに選ばれています。
本館の建物は、大正11(1922)年ごろの建築と考えられており、木造入母屋造の三層楼閣風の温泉旅館です。道路側に面した2階に玄関があり、3階とともに客室に利用されていて、渓谷側の1階は浴室と食堂となっています。
 県内でも三層楼閣風の木造旅館建築は数少なく、現役の旅館建築として大変貴重なものです。


私がこの温泉を知ったのは「日本温泉遺産を守る会」や「日本の宿」のサイトです。
泊まってみて、想定外の残念なことを知りました。国の登録有形文化財に指定されている3階建ての本館ですが、2階と3階は使用されておらず、3階の部分は建物の傷みがかなり進んでいました。回廊式の縁側の床は朽ち果てつつあり、内部の畳の傷みがひどいのです。3階部分はガラス戸など外部と隔てる物がなく、常時、雨風に晒されている状態でした。木の雨戸はありますが、主人曰く、台風の時に使うことがあるとのことでした。
従って本館は、一階部分が玄関、帳場、食堂、囲炉裏場として使われていうだけで、宿泊は増築した新館と別館です。この新館の部屋の畳も痛みが気になりました。マイナス判定の宿ながら中規模の大浴場は秘湯らしくよろしい。
現在の若い主人は3代目で「のんびり家族でやります」とのその思いを聞きました。
確かに交通の便が悪い山中の田舎の一軒家的な温泉旅館が古い3階建ての建物を維持管理しながらやっていくのは容易ではないでしょう。しかし四国では数少ない木造3階建てを活かした温泉宿として続けてほしいものです。条件さえ整えば、小藪温泉の訪れる温泉マニアは少なくないはずです。

石鎚神社
小藪温泉のすぐ傍に「石鎚神社」と書かれた鳥居があり、気になったので小さな境内に入ました。7月からの「お山開き大祭」の案内ポスターが貼ってありました。石鎚神社は石鎚山を神体とし、神話上の「石鎚毘古命(いしづちひこのみこと)」を祭神とする山岳信仰の系統で、「家内安全」「厄除開運」「当病平癒」によいとされています。
(中へつづく)


画像説明:宿泊温泉の地図(@こんぴら温泉郷A小藪温泉B由布院温泉C錦帯橋温泉D皆生温泉)、訪問先の地図(@川島城Aうだつ町並みB金刀比羅宮C早明浦ダムD梼原町E真網代くじらリハビリテーション病院F小藪温泉)、川島城から吉野川上流の望む(当時は晴天ではない)、うどん一休(吉野川市)、うだつの町並み(写真の右上の造りが「うだつ」)、脇町劇場、阿波晩茶(私が購入したのは別)、金刀比羅宮参道の寄付石群、琴平花壇(左:宿全体の半分の外観、ラウンジから讃岐平野を望む)、旧金毘羅大芝居(遠景の山は象頭山)、早明浦ダム湖の旧大川村役場(2008年9月撮影)、梼原町の道の駅(左)と町総合庁舎(右)、隈研吾氏、脱藩の道(梼原町内、現場で確認したが写真の中央の道ではなく右の林に小さな坂道が脱藩の道とあった)、みかん畑とモノレール(西予市。遠景は宇和海)、米山徹朗氏、真網代くじらリハビリテーション病院の石像群、小藪温泉(木造3階建ての本館と浴場)。

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