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<<   作成日時 : 2017/07/08 15:33   >>

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3日目
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ルート
3日目は、宿から伊予市に向かい、伊予灘の海岸線を佐田岬(さだみさき)半島の付け根まで移動し、フェリーの三崎港まで走ります。フェリーで対岸の佐賀関(さがのせき)港に渡り、まっすぐ由布院温泉に向かわないで、竹田市を訪れ、九重連山の東側の麓を由布まで走ることにしました。

伊予灘
宿から山を下り、肱川の岸に出て、右岸の道路を走りました。大洲市街地の大洲インターで松山自動車道に上がり、北東に走り、伊予インターで一般道に降り、伊予灘の海岸道路を南西に走りました。小雨で海上は霧に覆われほとんど何も見えない静かな伊予灘でした。
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伊予長浜
大洲市の一部の長浜は、合併前は長浜町で肱川に河口に在り栄えた街だったようです。JR予讃線の駅名は伊予長浜駅―小さなローカル駅でした―ですが、地元では単に「長浜」と呼んでいます。長浜の繁栄を示すものとして、肱川の河口に赤い橋の「長浜大橋」でしょう。1935年に開通したこの橋は当時まで川を往来する船が多かったことから橋の一部が開く、跳ね上げ式可動橋です。現在、全国的に現役で最古の可動橋だそうです。もっとも川を上り下りする船はなくなり、観光用に毎週日曜日に一回だけ跳ね上げているそうです。あの竜馬はこの港までこの肱川を下り、船で対岸の上関に渡っています。
私は新長浜大橋を渡り、さらに西に走りました。
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伊方原発
佐田岬半島の付け根で右折し国道197号線(高知市・大分市間、一部海上)に移りました。伊方町の中心地以外では国道は半島の尾根に近いところを走り、見晴らしはよいが海岸からかなり離れていました。この半島で現在稼働中は原発の一つを見学することは予定に入れておきました。
四国電力の唯一の原発基地で、1977年に1号機が稼働した後、2号機と3号機が稼働を始めました。これら3基の原発は半島の北側に在って伊予灘に面し瀬戸内海に在る唯一の原発です。また現在、わが国でいつのまにか再稼働させたさ原発5基の内の一つです。その他は九州電力川内原発の1号機と2号機、および関西電力高浜原発の3号機と4号機です。
国道のすぐ横に四国電力の「伊方ビジターハウス」があり、見学しました。先の旅で訪れた中部電力浜岡発電所と異なり、「浜岡原子力発電所」と異なり「伊方発電所」と称し、「浜岡原子力館」ではなく「伊方ビジターハウス」と称しているのです。反原発運動への配慮なのでしょう。
発電所周辺以外でも「原発反対」の立て看板が散見されました。伊方原発に対して建設反対の行政訴訟を行ったのは1973年、わが国で最初です。さらに現在も広島、長崎、福島の人たちが地震による瀬戸内海汚染の恐れがあるとして訴えているそうです。
ビジターセンターは、浜岡原子力館と比べ内容がかなり劣り、高レベル放射性廃棄物の最終処分について簡単な説明があるだけでした。また浜岡と同様に伊方にも展望台はあるのですが、原発ははるか眼下に在り、3機の建屋などの輪郭を観るにすぎませんでした。

国道九四フェリー
画像佐田岬半島の先端近くの「三崎(みさき)港」に着きました。フェリーの乗船は、既にネットで予約しており手続きは簡単でしたが、自車「インサイト」の運賃(乗船一人分を含む)が8700円と高かった。出航までにすこし時間があり、三崎近辺の漁村を訪ねて海岸線を走り2,3の集落を観ました。いまでこそ八幡市から40分ほどで三崎に来られますが、新しい国道ができるまでは、集落を繋ぎ沿岸を走る国道は四国を代表する悪路だったらしく、国道197号線の語呂合わせで「イクナ(行くな)国道」と呼ばれたこともあるそうです。その前は船が唯一の交通手段でこれもよく欠航したそうです。ネット情報によると、タレントのはるな愛の父親は宇和島出身、母親は伊方町出身で、この佐田岬半島で極貧生活を送ったと伝えられています。
画像港の売店で買った地元産の「イワシ稚魚のちりめん煮物」は帰宅後、食べましたが美味い。
11時30分発のフェリーには車がトラックを含め10数台載せ、乗客は30人ほどで出航しました。豊後水道は船が作る波だけで、おそろしいほど凪いでいました。昔、船医で貨物船の乗った時、今話題の南シナ海を航行した時の海面を思い出しました。
フェリー乗船中はできるだけ身体を休めたいとトラックの運転手と同じく大部屋でごろ寝して過ごしました。予定通り70分で対岸の佐賀関港に着きました。
半島の先端に在る「佐田岬灯台」は想定したより小さかった。対岸の関崎灯台とともに豊予(ほうよ)海峡の行き交う船の灯台です。

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佐賀関製錬所
フェリーが佐賀関港に近づくと、左手の小高い丘の上に紅白縞模様の高い煙突が見えました。付近の建物に「佐賀関精錬所」と書かれていました。精錬所で出るガスを上空と遠方に拡散するための煙突だろうと想像しました。
帰宅して調べると、この煙突は、現在、日本企業「パンパシフィック・カッパー」の銅精錬所の煙突で、1972年に完成し高さが200メートルだそうです。この煙突の近くに1917年完成の167メートルの煙突も在りましたが、老朽化で2013年に解体されました。
明治時代の佐賀関には小さいながらも銅の鉱山があり、採掘と精錬が行われていましたが、同時期の足尾銅山と同様に煙害がひどく、操業が中止されました。しかし世界的に銅の需要が増すなか、大阪に本社を置く久原鉱業がこの地で銅の採掘と精錬を再開しました。その際、煙害を少なくするため煙を上空で排出し拡散するために当時としては格段に高い煙突を建てたのです。これは煙害を軽減する方法の一つです。現在は、化学的な処理が行われていると思われますが、上空への排出を行う必要があるのでしょう。1929年、久原鉱業の事業を日本鉱業が引き継ぎ、戦後、分離、合併を経て現在の「パンパシフィック・カッパー」の企業として国内主要な銅精錬が続けられています。

コンゴの日本鉱業
画像佐賀関の精錬所についてネットで調べている時、偶然にも同時に別の情報源で日本鉱業のアフリカでの事業に伴うある事実を知りました。私は一時、特定非営利活動法人「アフリカ日本協議会(英語名称:Africa Japan Forum (AJF)」の会員でしたが、現在はメールで情報を得るのみです。同法人の最近のメールで、1970年代に日本鉱業がアフリカのコンゴ民主共和国で銅山の開発事業を行っていることを知りました。この事業には10年間で日本人従業員が延べ1000人ほどコンゴで生活していました。その間、現地の黒人女性―売春婦ではなくいわゆる「現地妻」−と性的関係を持ち、少なからざる子供たちが生まれたというのです。その後日本鉱業はコンゴの政情不安で鉱山を政府に譲渡して撤退しました。現地の女性とその子供たちが取り残され何の援助もなく現在に至っているということを知ったのです。このことはこれまで日本ではほとんど報道されなかったようですが、フランスのテレビ局が10年ほど前にドキュメンタリー報道をしました。今回、AJFの会員がその報道を知り、その内容があまりにショッキングなのでメールを通して会員に問いかけたのです。驚き困惑した内容とは、出産に立ち会った日本人医師が生まれた「混血の嬰児」を帰宅した後に死亡するような処置を施していたという「嬰児殺し」が行われていたというのです。
この日本鉱業がらみのコンゴでの出来事については、最近、朝日新聞の三浦英之氏がこれに関して独自に調べネットで報告しています。日本人と現地の女性の間に生まれた子供たち―既に30才代―と母親については詳細な報告しています。要するに日本人の顔立ちで苦労したが父親を責めてはいない、知りたい、会いたいと希望しているというのです。
「嬰児殺し」について三浦氏は、1年間、調査したが事実は確認できなかったと報告しています。
私と同世代の男性たちの看過できなくことで、ブログで簡単に報告しました。

関あじ関さば館
画像深刻な話題の次にグルメ報告はしにくいのですが、ブログを続けます。
フェリーから降りて小さな半島の南岸を走りました。佐賀関というと「関あじ」「関さば」がブランドとしてよく知れていると思います。本当にうまいのかと地元で確かめたいと食堂を探しました。港からさほど遠くはない豊後水道を望む海岸で「あまべの郷関あじ関さば館」(「あまべ」は「海部」または「海士部」のことらしい)を見つけました。店内にはそこそこ客が入っており、間違いないだろうと注文することにしました。目玉商品の「関あじ姿造り」は2900円と高く、これは避けて「佐賀関の刺身御膳」は1800円と仕方ないと決めました。出てきた御膳は雑然と並べた4種類ほどの刺身、新鮮さが感じられません。本命を注文すればよかったのか、観光客目当てのいいかげんな食堂だと判断してかなり食べ残して店を出ました。その夜、由布院温泉の宿で食べて刺身の方がはるかに美味かった。こうした店は注意した方がよいが初めての客は判断しにくい。

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臼杵石仏
次の訪問地の竹田を目指して国道502号線(臼杵市・竹田市間)を西に走りました。しばらくすると道の両脇の柱に「国宝臼杵石仏」の広告が数多く掲げられていました。国宝見学のこうした宣伝はやり過ぎではないかと反感を覚えました。
その「臼杵石仏」または「臼杵摩崖仏」の現場に着きました。石仏は分散し少し歩かなければならない、入場料500円払わされると反感が続いて、仏教美術の見学に来たのではないとその場を去りました。
なお「臼杵石仏」は平安時代から鎌倉時代にかけての崖に仏像を彫ったものですが、製作の由来があまり解明されていないそうです。

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深田の鳥居
臼杵石仏への国道からの三叉路の脇の田んぼのなかに半分泥に埋まったような石の鳥居が在りました。帰って調べると「深田の鳥居」と呼ばれるもので、石仏と関係とあるらしいが、これも由緒不明で謎の鳥居だそうです。臼杵の二つ目の不思議。

竹田市役所
画像九州内陸部でよく耳にするが訪れたことがないということで「竹田(たけた)市」に寄りました。前以てなにも調べてはいなかったので市内の観光マップを求めて市庁舎に行きました。この役所の建物に驚きました。
竹田市の観光の目玉は、この地で幼少時を過ごしドイツに留学したが結核で夭折した作曲家瀧廉太郎と彼が「荒城の月」の作曲の構想を得たとされる岡城址でしょう。城下町竹田というイメージを市庁舎に活かそうと造られたようです。私には市民を見下し支配し管理する「現代のお城」としか映りませんでした。

瀧廉太郎
その滝廉太郎ですが、「荒城の月」の作曲と「岡城址」との関係は根拠曖昧と思います。東京生まれの廉太郎は、幼い頃内務省の官僚だった父に転勤で国内を転居しています。その一カ所が竹田でした。12歳から14才まで暮らしています。もっとも瀧家は大分の藩の要職を務めた家系で、23才大分市で亡くなっていますが、竹田とは関係ないようです。また竹田の岡城は、明治政府の廃城令で取り壊されたのであって、戦い敗れて荒城となったわけではないのです。
我が国の国民的名曲で長く歌い継がれてきた「荒城の月」の作曲家を観光資源と活用したくなるようですが、史実はしっかりと押さえておいてほしいものです。

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長湯温泉
竹田市街地から由布院に向けて走っていると、県道に沿って歓楽的雰囲気のなく宿が15軒の中規模の温泉街を見つけました。初めて知る「長湯温泉」です。奈良時代から知られてはいた古い温泉だそうですが、近年は血行をよくすると効用を謳う「炭酸温泉」として知られるようになったそうです。また中を流れる「芹川」にはカニに形をした共同風呂がありますが、遮る物がなく利用しにくい露天風呂として有名だそうです。
なお竹田市には「長湯温泉」「竹田・萩温泉」および「久住温泉郷」を合わせて竹田温泉群と呼んでいます。九州のなかでも温泉の多いい地域のようです。

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由布院温泉「楓の小舎」
九重連山の東側の麓の霧のなかを北東に走り、「由布市」に入りました。由布市の由布院温泉を取り巻く山の麓からいくつかの湯気が立ち上がっていました。由布らしい光景です。
JR久大本線の由布院駅の前に着きました。車では2回目です。駅前周辺には韓国、中国、台湾、香港のいずれかとも判別しにくいアジア系と思われる多くの若者たちの姿を観ました。駅前のメインストリートは由布院温泉らしくないすこし汚れた町並みでした。カーナビの指示に従ってゆっくり移動すると、林のなかに入りその一角に「楓の小舎(しょうじゃ)」を見つけました。由布院温泉らしいロケーションでした。宿の前の駐車場に現れた若い男性が私の荷物を持って部屋まで案内してくれました。
この温泉旅館は浴槽付きの離れ形式の六つの客室からなり、私のような一人旅のための部屋もその一つでした。その部屋は、なぜか屋根のない裏の空き地を少し歩いて事務所の2階に在りました。部屋そのものものは申し分ありません。無料の貸切露天風呂がありましたが、当日は雨で利用できませんでした。足湯がありましたが、温泉宿で使うことはないでしょう。部屋担当の男性は夕食を部屋まで運んでくれました。関東の生まれで3か月前からこの宿で働いていということでした。私の伊豆の下田での経験も踏まえていろいろ話をしました。
当日、宿には私のほかもう一組が泊まっていたらしく、朝食はやや高齢の女将が運んでくれました。
この宿はちょっと不思議なシステムで、宿泊客が互いに顔を合わせるサロンのような場はなく、チェックインは部屋でするか、駐車場に面したフロントで済ませます。「ラブホテルのようなシステムですね」と帰り際に女将に意見を伝えました。
料理は申し分なく「少しお薦め」の由布院温泉の宿です。

「由布院」か「湯布院」
ところで先の旅で「由布院」か「湯布院」かの名称を議論しました。ウイキペディアに面白い表現を見つけました。「由布市の湯布院町に由布院温泉がある」というものです。
1955年に由布院町と湯平村が合併して新たに「湯布院町」という名称が生まれ、2005年に挾間町と庄内町と3町が合併して「由布市」になったのです。湯布院町の地名は由布市に残り、以前からの公式温泉名「由布院温泉」はそのまま使われているというのです。

4日目
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ルート
宿から由布院温泉の丘陵地帯の「大分自動車道」に沿った県道を走り、「立命館アジア太平洋大学」の入り口の前を下り、国道10号線(北九州市・鹿児島間)、そして国道213号線(別府市・中津市間)に移り、国東半島を一周し、宇佐神社を訪ね、門司で高速道路に上がり「関門橋」を渡り、そのまま岩国まで中国自動車道と山陽自動車道を走りました。

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国東半島
半島の南岸にある「杵築(きつき)市」は城下町でその市街地にある観光用再建天守閣、古い町並みの一部を少し見ただけでした。後から調べると竹田より杵築の方でゆっくり過ごすべきだったかもしれない。半島の東部を占める国東市に入り、大分空港の入り口を通過しました。同市の半島北東部で小さな教会と銅像を見かけたので気になり車を停めました。「ペトロ・カスイ岐部記念公園」です。

ペトロ岐部
画像人生波乱万丈とはこの人のことかと思わせる人物「ペトロ 岐部(きべ)」について初めて知りました。ペトロ岐部は、半島の豪族の出身で、戦国時代のキリシタン大名を出した大友家の重臣を務めた家系ので、クリスチャンだった両親の元、1957年に生まれました。しかしこの年はキリスト教を容認していた豊臣秀吉が「バテレン追放令」が出した年です。1614年、江戸幕府の追放令で岐部はマカオに逃れます。この地から司祭になるべく海路と陸路で3年かけてローマに着きました。イエズス会士となり、リスボンから船で喜望峰を回りゴアに着きました。さらにマニラを得て日本に向かい薩摩半島に上陸しました。日本を出てから16年後のことです。江戸幕府の弾圧を避け、潜伏しながら信者を励まし仙台に身を置きました。しかし密告され江戸に運ばれ、「穴吊り」で死なないと、火炙りで処刑されたというのです。仏教的には享年52。
これまでして人が創った幻の神を信じ、命がけで信仰に固守し、殉教を厭わない人間とは一体いかなる存在なのか改めて考えさせるペトロ岐部です。宗教の持つ恐ろしさを体現した人物と受け取りました。「隠れキリスタン」の悲劇については先の五島の旅で詳しく知りました。これは宗教に囚われる人間の悲劇か喜劇か、悲しみか喜びか。

たこ丼
画像国東半島の沿岸をさらに走ると「道の駅くにみ」(「くにみ」はこのあたりの地名「国見」のこと)がありました。その中の「レストラン美浜」で、地元の郷土料理を期待して「たこ丼」を食べました。中年の女性たちが運営しレストランのようで、おいしい丼でした。





姫島
画像「道に駅」からすこし先に「姫島フェリー乗り場」がありました。よく聞く島の名前ですですが、改めてネットで調べてみるとユニークな島であり村のようです。
江戸末期までは周防灘の要衝として重視され、現在、観光事業に活路を見出し成功した自治体として知られているようです。姫島村(人口約2000人)の公式サイトによると、ジオパークに指定されている火山性の島、国の無形民俗文化財に指定されている大掛かりな「姫島盆踊」、島で養殖されるブランド「姫島車えび」など、小さな島にしては豊かな自然と文化と産品が在るようです。
しかし、姫島でグーグル検索すると、「姫島村リンチ殺人事件」が出てきました。1962年に起きたやくざ映画を地で行くような事件だったようです。
姫島には村営のフェリーが運行され、1時間1本、片道20分、料金は570円です。島に渡ると時間的余裕がなく諦めました。

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宇佐神宮
宇佐市にある宇佐神宮は必ず訪れることにしていた宗教施設です。全国の八幡宮の総本社、で京都の「石清水八幡宮」、鎌倉の「鶴岡八幡宮」(または福岡の「筥(はこ)崎宮」)と併せて三大八幡宮と言われています。根拠曖昧で、筥崎宮を入れて四大宮すればすっきりしますが、「三大」にこだわっている理由が分かりません。
第一祭神は「八幡大神(はちまんおおかみ)」で、この神は実在したのか神話上の人物なのか曖昧で呼称が多すぎる「応神天皇」の神のことです。奈良時代にこの地に創建とされた神社ですが、印象深い境内でもなく社殿でもありませんでした。

別の件で「ダイアモンド社」のサイトを調べていると、今年の7月5日付けで「神社本庁『恐怖政治』の実態、地方の大神社で全面戦争」と題する記事が載っていました。
戦前の神道の普及に関わる国家機関「神祇院(じんぎいん)」を継ぎ、戦後の政教分離で宗教法人となった「神社本庁」は全国の大半の神社を統括しています。その権限を利用して政治活動も厭わないようですが、この宇佐神宮の神職人事に介入したという内紛記事です。宗教活動に専念しているように見せかけ裏では政治活動に関わる宗教法人は少なくないようです。

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関門橋
宇佐神宮からできるだけ海岸に近い道を選んで門司に向かいました。門司は国道2号線と国道3号線の接点で下関に至る国道2号線は橋だろうとなぜか思い込んで走っていました。しかし国道2号線がトンネルに入るのに気づき、引き返して高速道路に上がりました。トンネルで海峡を通過したのでは実感が伴わないと橋を選んだのです。
海峡には、国道2号線、JR山陽本線、山陽新幹線の三つのトンネルが貫通しています。
「関門橋」という簡単な名称ですが、関門海峡にはこの橋しかないのです。門司側の「めかりパーキングエリア」(「めかり」は和布刈と表記する地名)で車を停めて、関門海峡を上から見渡しました。眼下に広がる海峡には船が往来し、海峡の双方にはそれぞれ特徴ある建物が散見できました。先の旅で関門海峡を連絡船で渡りました。海峡を挟んだ下関と門司を立体的に理解できたと思いました。
1973年に開通した関門橋は当時、日本最長のつり橋だったそうです。

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岩国国際観光ホテル
岩国に宿を選んだのは、先の旅で岩国市を通過しながら広島に急いでいて錦帯橋を観ることができなかったので、必ず観られる「岩国国際観光ホテル」を選びました。同ホテルは「錦帯橋温泉」と自称しているが近辺の温泉はこのホテルだけのようです。
画像想定外に大きな温泉ホテルで、ホテルの部屋からも露天風呂からも錦帯橋とその下を流れる錦川が見事なパノラマを観ることができました。川と山と人工建造物の集合体のこうした景観は嵐山に似ていました。
もっとも錦帯橋や対岸からみると夜は不夜城のごとく映りました。景観破壊型ホテルが錦帯橋近辺の景色を独り占めしているようでした。今なら、こんな大きなホテルがこの景勝地に建てられるはずはないでしょう。ロントで聞くと、このホテルは明治時代にこの地で旅館を始めた老舗らしく、その既得権で大型ホテルを新築できたようです。
画像ホテルのサービスですが、老舗ホテルらしくひと昔前のしっかりした内観でした。料理も夕食、朝食とも申し分なく、夕食には郷土料理の「岩国寿司」(押し寿司の一種)と「大平(おおひら)」(れんこん、里芋、人参、鶏肉などを煮込んだ椀物)を頂きました。
大浴場はホテルの最上階に在って立派な浴場と露天風呂でした。男女入れ替えで両方を楽しみましたが、露天風呂に大きな御影石の一枚岩をくり抜いた岩風呂ではなく「石風呂」は初めて経験しました。
(下へつづく)


画像説明:訪問先の地図(@小藪温泉A伊予市BJR伊予長浜駅C中国電力伊方原発D三崎港E佐賀関港F竹田市G長湯温泉H由布院温泉I大分空港J宇佐神宮K関門橋K錦帯橋)、長浜大橋(手前、中央部が開閉する。左は新長浜大橋、橋の下は肱川、沖が伊予灘、遠景は周防大島など)、伊方ビジターハウス」と伊方原発(ビジターハウスに隣接する「道の駅きらら」から撮影とあり)、国道九四フェリーの三崎乗り場とフェリー、佐田岬灯台(遠景は豊予海峡の高島)、佐賀関の煙突(中央部が精錬所、その奥がフェリー乗り場)、コンゴで日本鉱業の男性と間に生まれたとされる男性とその母親(2017年1月21日付き三浦英之の「コンゴ民主共和国(旧ザイール)の日本人遺児たち」より。「ジョー・トミヒサさん(右)と母マギー・カランバさん。1978年7月生まれ。仕事で一度、来日経験がある。「人やビルがたくさん会って目が回りそうだった」。隣国ザンビアで働きながら、空手を学んでいる 」と解説あり)、あまべの郷関あじ関さば館(1階は土産物屋、2階はレストラン)、臼杵石仏入り口(右の建物)、深田の鳥居、竹田市役所、長湯温泉(右下が名物露天風呂「ガニ湯」)、「楓の小舎」の入り口(遠景は当日見えなかった由布岳)と私の泊まった部屋、立命館アジア太平洋大学(遠景は別府湾、左方向が由布)、杵築城(手前は八坂川、遠景は守江湾)、ペトロ・カスイ岐部記念公園、たこ丼(「道の駅くにみ」の「レストラン美浜」で)、宇佐神宮大鳥居、関門橋と関門海峡(手前が下関、向いが門司)、岩国国際観光ホテルの夜景(錦帯橋からの映像、宿泊時、これに近い光景であった)、同ホテルの露天風呂から錦帯橋を望む、岩国寿司(同ホテル)。

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